原敬と岩手県 ~平民宰相が故郷に残した軌跡~

はじめに

原敬は、近代日本政治において多大な影響を与えた人物であると同時に、故郷である岩手県の発展に大きく貢献しました。

原敬は「平民宰相」の俗称が有名ですが、原敬がなぜ平民宰相と呼ばれたのか、そして岩手県とどのような結びつきがあったのかを紹介します。

  • 原敬が「平民宰相」と呼ばれた理由

原敬が平民宰相と呼ばれた理由は、彼自身が爵位を保有していない初の総理大臣であり、かつ藩閥出身でもなかったからです。

明治時代の内閣は明治維新を先導した薩摩藩や長州藩など藩閥の出身者が大部分を占めていました。

原敬は藩閥出身ではなく、また爵位も持ち合わせていないにも関わらず、優れた功績によって総理大臣にまで上り詰めたのです。

そんな原敬に対して、国民たちは親しみを持つようになり、いつからか「平民宰相」と呼ばれるようになりました。

  • 岩手県との深い結びつき

原敬は岩手県盛岡市の出身であり、彼の祖父は盛岡藩で新田の開発や用水事業など、農業の発展に大きく貢献しました。

原自身も岩手県の事を非常に大切に思っており、現在でも岩手県民の憩いの場となっている盛岡城跡公園の整備をはじめ、鉄道の整備など岩手県の発展に尽力しています。

岩手県の小・中学校では同県出身の偉人について学ぶ時間を設けていますが、原敬も「わんぱく原敬塾」という先人学習を実施、彼の精神を子どもたちに伝えています。

原敬の生い立ちと岩手の風土

原敬は地元岩手県でどのような幼少期・青少年時代を過ごしたのでしょうか。

本章では原敬の幼少期から青年期までの生い立ちを紹介します。

盛岡での幼少期

原敬は幼少期から大変な苦労をして育っています。しかし幼少期の体験は原自身の人格形成に多大な影響を与え、のちに平民宰相と呼ばれるほどの支持を集めるようになるほどの人物へと成長します。

  • 原敬の育った環境

原敬は1856年、盛岡藩士の上級武士の子どもとして生まれました。

つまり、出生時は爵位を授けられてもおかしくないほどの身分だったのです。

ところが岩手県南部藩は幕府側勢力であり、薩摩・長州といった新政府軍とは真っ向から対立する立場でした。

戊辰戦争により旧幕府側が敗北すると、南部藩も没落し、原家も非常に困窮するほど家計は苦しくなります。

父親は早くから死去していたため、原は母によって育てられました。

南部藩が政府への上納金を各藩士にも負担するよう命じられた時、母は家財を売り払って献納しています。

しかし、貧しいながらも原の母は非常に教育熱心であり、「勤勉に励み、大局を見て行動する」という原の行動理念は母から学んだといって過言ではありません。

地元から広がった志

  • 明治維新の政策が与えた影響

明治維新は幕府の独裁政治を廃し、天皇中心で西洋風の国民参加の政治を目指すという目的で実行されました。

ところが、実際は明治政府設立後薩摩・長州の政治を2藩が牛耳っているような状態でした。

原が派閥を生涯嫌ったのは、明治政府の独裁政治が大きく影響していることは間違いありません。

のちに政治家となった原は出自を気にせず能力重視の登用をするようになります。

原敬の功績と岩手県への影響

原敬は地元に貢献した祖父の影響もあってか、岩手県に対して強い愛着を持ち、政治家となってから岩手県の発展に多大な功績を残しました。

本章では原敬の功績によって、岩手県がどのような発展を遂げたのかを解説します。

鉄道網の整備

地域経済が発展するためには交通インフラを整備させなければなりません。

原は地元岩手県の発展のため鉄道整備を積極的に推進し、地元経済の活性化に大きく貢献しています。

  • 地域経済を支えた交通インフラの拡充

原は通信大臣や鉄道院総裁に就任し、鉄道の国有化を進めました。

岩手県では盛岡市と三陸海岸を結ぶ山田線の施設計画を推進しており、内閣総理大臣就任後、1921年に着工を開始しています。

山田線の開通をきっかけに岩手県内の交通網は続々と整備され、岩手県の経済は大きく発展しました。

教育と地方振興

  • 地方発展を重視した政策の実績

原は、岩手城城址公園の整備以外にも、岩手県の発展のために尽力しています。

原敬が岩手県に行った事業のひとつに岩手県立図書館の建設があります。

建設にあたって、原は多額の寄付をすると共に蔵書も提供しており、岩手県の教育環境の充実に大きく貢献しました。

また、大慈寺の再建にあたっても資金を提供しています。

原の政策によって岩手県は教育だけではなく文化面でも飛躍的な発展を遂げたのです。

現代に生きる原敬の教え

地域密着型リーダーシップ

原敬は、現代の政治を語る上で欠かせない人物の1人です。

原敬によって日本の政治はどのように変わったのでしょうか。

  • 地方の声を政治に反映する姿勢

原敬は、幼少時代の体験から徹底的に派閥政治を嫌いました。

南部藩は旧幕府軍に属していたため、明治政府の中心となっていた薩摩・長州とは敵対関係であり、薩長中心の政治とどう向き合うのかは、生涯のテーマとなっています。

母の教えもあり、原は人一倍勉強して知識を吸収し、卓越した実務手腕によって1900年に政界入りします。

その後何度かの挫折をしながらも総理大臣を狙える地位まで出世しますが、1915年の選挙では敗退を喫してしまいました。

しかしこの敗退を機に、原は「聞く力」を重視し、実績があれば若手でも要職に抜擢し、1918年、ついに総理大臣の座にまで上り詰めたのです。

就任後は藩閥と戦いながら、地方の声を政治に反映できるような体勢を築き上げることに尽力しましたが、志半ばにして暗殺されてしまいました。

岩手県と日本への遺産

原敬は岩手県が産んだ日本の近代発展になくてはならない人物であり、原敬の政策は日本にとって大きな遺産となっています。

  • 原敬が残した価値観の普遍性

原敬は「私利を求めず、正直かつ勤勉で、大局を見て行動する」という価値観で行動しました。

鉄道建設を推し進めたのも目先の利益を求めるのではなく、鉄道網が発達することで人やモノの運搬が容易になり、産業が発展して多大な利益を生むであろうという大局を見据える目的があったからに他なりません。

おわりに

  • 岩手県と日本を結んだ原敬の役割

藩閥政治が原敬によって打ち破られなければ、大正以降も薩長主導の政治になっていたことでしょう。

かつての敵である岩手県の声が藩閥政治に反映される可能性はゼロに等しいです。

原敬が総理大臣になることで、岩手県という地方と日本という国が結びつき、最終的に日本が大きく発展する足がかりとなりました。

  • 現代における原敬の意義

原敬は、本当の意味での民主政治を日本でスタートさせた政治家です。

明治時代では政治を動かすのは薩長出身のごく一部の人たちであり、民主政治とはとても呼べない状態でした。

原敬は爵位を持たず、薩長以外の出身者でありながら卓越した政治手腕で総理大臣となりました。

原敬によって、藩閥出身者以外でも政治を動かせる世の中となり、日本の政治は大きな転換点を迎えたのです。